みならいの放浪記 1999 葉月・第3回
〜予定外の一日〜

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前回までのあらすじ

1999年8月27日金曜日の午前7時43分に富士駅を発車する身延線甲府行きに朝食を持って乗り込んだ若者約1名,富士山を見ながら甲府へ行くはずだったが……

西富士宮を発車すると列車はほぼ180度向きを変えて,山を登り始める。したがって,これまで進行方向右側に見えていた,もとい,見えているはずだった富士山は進行方向左側に見える。それから,地形の関係でもう一度180度向きを変えて山梨県に入るまでが一番富士山の眺めがよい。がしかし,今日の天候では残念ながら見えるべきところに富士山は見えていない。このように車掌さんが教えてくれたのだった。

ところが,西富士宮を発車して3分ほど走ったところで車掌さんがわざわざ乗務員室から出てきて「あそこにうっすらと富士山が見えているよ」と教えてくださった。その指さす方向を見ると,たしかに記憶にある富士山の稜線と同じカーブが雲の中にうっすらと見えている。親切な車掌さんに感謝の意を表した。

そうすると,横に座っていたおばさん(実は70代)が話しかけてきた。かくかくしかじかで,と説明したことから話がはずむのだった。といっても,ほとんど彼女の身の上話を聞いていたわけだが。熱海の老人ホームでご主人と仲よく暮らすけれど,今日は山梨県小淵沢の別荘に妹が呼んでくれたから行く途中だ,5人兄弟でそれぞれが旦那さん・奥さんを連れてくるから合わせて10人になる計算だけど,私の旦那は戦争のときの後遺症で足が不自由だから老人ホームに置いてきて,この間は私は独身だ,などなど。甲府着は10:12。かなり長い路線だから退屈しておられたらしく,話は尽きない。

そのうち,沿線随一の町である身延が近づいてきた。そうすると彼女は

「まあ,懐かしい。身延は戦争のとき疎開で来ていましたの。」

という。そして

「身延山ってね,さぞかし大きなお寺があるんですよ。駅からバスが出てるの。若いうちにいろいろいい建物を見ておくのはいいことですよ。」

とかなんとか話は膨らみ,

「あ,車掌さん!(手招きしている)こちらの方に身延山のよさについて説明してあげてくれませんか」

ということになって,8:57,私は身延駅のホームに半ば強制的に降り立ったのである。

当初の予定どおりではこのまま甲府まで,いや,もしかしたら小淵沢まで彼女の話を聞くことになりそうだったのでそれを回避する,という高度な政治的判断も(以下略)

身延駅に降りたからといって,別に身延山へ行かなければいけない,というわけでは決してない。しかし,次の甲府行きは 10:21,その次は 12:21 である。一方,身延駅から身延山行きのバスは次は 9:20 で,その後も30分くらい毎にある。思ったよりかなり本数が多いし,終点身延山まで所要13分。そこで,まずは 9:20 発のバスで身延山に向かう……

前に,駅から歩いて5分くらいのところにある大河内郵便局に寄って,身延駅から2つめのバス停「身延職安前」からバスに乗った。やって来たバスは山交タクシー株式会社のバス。「山梨交通」というバス会社の子会社らしいが,最近都会では見掛けなくなった2世代くらい前の車両で,床は木張りだしエンジンは黒煙を吹き上げるしエトセトラ。

バスは富士川を渡り,トンネルを抜けて「隧道北口」というバス停に停まる。それから身延町の中心部に入り,役場前,農協前,高校前などを通り過ぎ,「総門」を過ぎて山を登り始めた。それからいかにも門前町という感じの土産物屋街の前を通り,身延山郵便局の横のロータリーが終点だった。

バスの運転手の言うとおり,バスが登ってきた道をあと3分ほど登ると,そこに山門があった(さっきバスでくぐったのは総門)。山門のあたりで拝観料を取るのだろうな,と思っていたが,この寺は拝観料は取らないようだった。

山門をくぐると,樹齢千年に近いと思われる杉並木。その中を石畳の道がつづく。荘厳な雰囲気で,来てよかったと思えるところだ。ところが,その次に私を待ち受けていたものは……

287段の石段。

その名を菩提梯(ぼだいてい)といい,南/無/妙/法/蓮/華/経の7つに分かれてまっすぐ天を目指している。もちろん,そこらのビルの階段とは違い,30センチ前に進んだら30センチ上に登るような段が287段。脇に看板が立っている。

参拝ご苦労様です。お年寄りの方,気分のすぐれない方は無理をせず坂をお登りください。

確かに横に「女坂」という坂がある。しかし,それだけではなくて

「男坂」という坂もある。

それほどまでに険しいのだけど,せっかくここまで来たのだからと覚悟を決めて階段を登った。「登りきると悟りが開ける」というのはあながち嘘ではないことを実感すると(登ってから下を見下ろすと,高所恐怖症の人はくらっとくるに違いない)そこには本殿があった。どうやってこんなところにこんな建物を建てたのか,というほどに大きい。そして美しい。

やはり拝観料を取り立てる気配はなく,靴を脱いで本殿に上がり,参拝する。そして,帰ろうとして気付いたのだが,

「竹中工務店」の銘板がしっかりと埋まっている。

どうやら近頃建て替えたらしい。それにしても,どうしてこんなに立派な寺がこんな片田舎にあるんだろう,と思いながら寺の由緒書を読む。ガイドブックか何かで予習をしてくるのが普通だろうけれど,今回はまったく予定になかったのでこの身延山久遠寺について何も予備知識がなかったのだ。そうすると,ここは

日蓮宗総本山

で,中学生なら誰でも知っている日蓮が直々に開いた寺なのだという。たいへん失礼な言動がありましたことをお詫び申し上げます。手水場で喉を潤し(手水の使い方としては誉められたものではないけれど)階段で足を踏み外すと生きては帰れないような気がしたので男坂を下って下界に戻ったのでした。

次の身延駅行きバスは 10:50 なので,身延山郵便局でハガキを数枚書いて風景印を押してもらい,貯金もする。貯金をしてティッシュペーパーをくれる郵便局は多いが,ここではなんと

キッチンペーパー

をくれた。使い道に困りながらありがたく頂き,バスに乗る。ちなみにこのバスはさっきのバスで,この間に駅を一往復してきた模様。

風景印:消印の一種。したがって,今なら50円以上の切手もしくはハガキにしか押してくれない。直径36ミリ程度の赤茶色のはんこで,その土地の名物の絵(身延山郵便局の場合はもちろん身延山久遠寺)と局名,それに日付が入る。すべての郵便局にあるわけではない。現に先ほどの大河内郵便局にはなかった。

このまま駅に戻っても次の列車は 12:21 発で,時間があり余る。ちょうどこのバスは自由乗降(頼めばバス停以外でも乗り降りできる)なので,来る途中にバスからちらっと見えた〒マークに行ってみることにする。たぶんそれが身延郵便局だろう。

運転手に「郵便局のあたりで降ろしてください」と頼み,バス停のない三叉路で「ここを左に行って突き当たりを左に行けば郵便局だよ」と教えてもらい,身延郵便局へ。ここでも風景印があるというので押してもらったら,なんと

身延山郵便局とまったく同じ図柄。

違うのは局名が「山梨 身延山」か「山梨 身延」かという点と,年月日の配置だけ。ま,そういうこともあるさ。

ここから駅までは,よく考えたら,トンネルを越えて富士川を渡ってけっこう距離があるような気がする。そんなことを今さら考えても遅いのだが,列車の時間までまだ1時間近くあるので,のんびり歩く。トンネルには申し訳程度の歩道がついているだけで無事通れるかと心配になったけれど,実は横に歩行者専用のトンネルが別に掘ってあり,快適な散歩だった。天気が良すぎるくらいだ。発車の20分くらい前には駅に戻ったのだが,昼ごはんを食べるにはちょっと短いので見送り。駅の売店でシャーベットを買って,列車に乗り込む。そのシャーベットだが,名を

レモン&輪切りレモン

という。名前の通り,レモンシャーベットの上にレモンの薄い輪切りが乗っているのだが,食べてみてわかった。

輪切りが邪魔で,シャーベットがすくえない。

ま,そんなこともあるさ。甲府までの1時間強は居眠りしながら過ごし,甲府駅の立ち食いそばを食べて,中央線で小淵沢へ。当初の予定ではここから小諸までの小海線を往復してくる予定だったのだけど,諸般の事情により(笑)時間が少なくなってきたので途中の野辺山までの往復とする。野辺山から先はまた今度のお楽しみということで。乗り換え待ちの30分ほどの間に駅近くの小淵沢郵便局に寄る。「馬と高原の町」なんだそうで,風景印の図柄も高原で乗馬をしている人々だった。

発車時間が近づくと,小海線小諸行きの2両のワンマンカーはかなり混雑してきた。やはり夏の終わり,清里あたりに避暑に行く人々がたくさん乗っているのである。15:08 に発車した列車は,かなりの急坂をものともせずに登っていく。昔のディーゼルカーやSLの時代はさぞかし苦労したろうな,というところである。

それもそのはず,小海線は日本一高いところを走る鉄道なのである。日本一高い駅である野辺山駅の標高は 1345.67 メートル。ちなみに最高地点は清里と野辺山の間の踏切のあたりで,1375メートルなんだそうだ。

清里駅は山梨県だが,野辺山駅は長野県南牧村。駅の近くの野辺山簡易郵便局があったので今日最後の貯金をして,あたりを散策。帰りの列車まで1時間ほど時間があり,南牧村歴史民俗資料館に入る。この資料館はなかなかすごかった。古いものは

縄文式土器,矢じり,メタセコイヤの葉の化石

から始まり,新しいものは

長野オリンピックの聖火リレーで使った用具一式

まであったのである。その中で特に目を引いたのは,翼を広げると1メートル近くになるイヌワシの剥製。これについていた解説文が秀逸。

昭和16年9月5日,板橋の吉沢与四郎氏住宅より東20メートルの草原にてネコ(体重 4kg 余り)と格闘。

さて問題。どうしてネコと格闘していたイヌワシの剥製がここに飾ってあるのでしょうか? 答えは4回目で。


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